虐待という言葉が知られ始めてから、もう大分経ちます。昔は子供や女性、もしくは弱い立場の人間が暴力を振るわれることは当たり前だった社会が、全体的に変わってきたと言うことができるでしょう。幼児虐待、動物虐待、パートナー間虐待、そして老人虐待…。最近では、ニュースでも、こういった類の話を聞くことは珍しくなくなってきました。耳を覆いたくなるような事件も多い中、一方で、今まで問題視されずに世の中から無視されていたことに注目がいくようになったのは、解決への第一歩という見方もできるのではないでしょうか。
ただ、親から子供に対するネグレクトに関しては、ものすごくセンセーショナルな事件以外は、まだまだ注目度が低いように感じます。一般的に言って、虐待はわかりやすく形に現れることが多いです。例えば、目に見える暴力は一番わかりやすいですし、怪我や痣などの証拠が残ることもあります。言葉の暴力に関しても、録音したり、紙に書きつけたりと、何らかの形で記録することができなくもありません。つまり、虐待は、一方からもう一方へ何らかの酷いことが行われる、という比較的わかりやすい形であり、「私は虐待を受けた」と言うことによって、周りから同情を得やすかったりもするでしょう。場合によっては、虐待をしつけの一部だと考える人もいると思いますが、しつけにしろ虐待にしろ、それが実際に「起こった」という事実自体を否定することは難しいでしょう。
その一方でネグレクト ー 特に愛情に関するネグレクト(emotional neglect)の難しいところは、まず第一に、それが起こったこと自体、気付かれにくいという部分です。ネグレクトと虐待はセットで起こる場合がもちろん多いのですが、虐待は無かったけれどもネグレクトはあった、という場合が特に見えにくいです。加害者はもとより、被害者の立場にある人も、受けたことがないもの(例えば愛情を持った子育て ー つまり無償の愛)を受けてこなかった、と実感するのはそもそも経験がない分難しい。私が今まで出会ってきた多くのネグレクト被害者の方たちも、実際自分が被害者だったと気付いたのは、大人になり、様々な知識を得たり経験を積んでからだった、ということがほとんどです。しかも、例え気付くことができたとしても、あまりに人から「気持ちを無視される」という状態に慣れてしまっていると、そういった立場から抜け出す、または抜け出すことができる、と理解するだけでも至難の業なのです。
よくあるのは、「問題は一人で解決しないといけない」という風に思い込んでいるパターンです。これは生きている感覚なので、言葉で表すのはちょっと難しいのですが、「私は孤独だ」とか、「何を言ってもしょうがない」とか、様々な問題を解決する以前に、すでに諦めてしまっている心理状態、とでも言いましょうか。こういった感覚をお持ちであれば、幼い頃から自分の欲求を無視され、色々なことを飲み込んで生きてこられたのかなあ、と察します。ただ、それは当たり前ではなく、おかしいことです。また、生きていく上で、かなり損です。もちろん、その感覚は正していくことが可能です。可能なのですが、まずは、その感覚がおかしい、と気付くことが必要なのです。それは簡単なように見えて、今までの自分の価値観をひっくり返すことでもあるゆえ怖かったり、親や目上の人への忠誠心が強い人ほど罪悪感を感じてしまったりして、困難なことでもあるでしょう。
そういった意味で、セラピーにおける回復に関しては、ネグレクトの問題の方が、虐待が関係している問題よりも解決に時間がかかったりします。多くの人が、「別に酷い虐待を受けた訳ではないので、私の問題は大したことはない」と考えていることも、問題をややこしくさせている理由の一つです。要するに、酷い虐待を受けた=治療が難しい、という方程式が常に成り立つ訳ではないということです。けれど、この思い込みを持っている人は、世間では非常に多いのではないかと思います。実はプロのセラピストやカウンセラーでも、そう勘違いしている場合は多かったりします。が、そこは、トラウマ解決における落とし穴なのです。
ここで、ネグレクトのわかりやすい例をいくつか挙げておきます。1)多いのは、一人の親が暴力的だったりアルコール中毒だったり、大きな問題を抱えているケース。一見、もう一人の親は問題が無いように見えます。が、被害者のように見える方の親も、子供に対して愚痴を言い続けていたり、被害者という仮面を被って子供に心の面倒を見てもらっている場合があります。これは、立派な心理的ネグレクトです。2)また、前回のブログのテーマであった、教育虐待があるケース。これも、親が子供の希望を無視しているという点が心理的ネグレクトに該当します。3)最後は、親に大きな病気や金銭的問題など、どうしようもない社会的な弱みがあるケース。こういった場合は、非常に残念なのですが、親が意図していなくとも、心理的ネグレクトが起きてしまっていることが多いです。なぜなら、子供は、必然的に親の面倒を看なければいけない、というプレッシャーを抱えてしまうからです。特に責任感の強いタイプの子供は自分の欲求を押し殺し、親を助ける役割を担っていき、人を助けることでしか生きがいを感じられなくなってしまったりします。世の中には、上に挙げた三つの例全てに当てはまっているケースも多々ありますが、どのケースにしても、子供の人生における影響は多大で、その弊害は非常に大きいと言えるでしょう。
最後に、ネグレクトによるトラウマ解決において一番重要なポイントを挙げておきます。それは、「自分は無視されて悲しく寂しかった」という気持ちを感じとることは、親、もしくはお世話になった人を責めることとは違う、というところです。例え親が間違っていたとしても、責めたくなければ、責任に関するポイントに執着する必要は特にないのです。一番大切なのは、理由はどうあれ、まず起こったことを現実として受け止めること、そして自分自身の気持ちを認めることです。嫌だった、辛かった、悲しかった、寂しかった。そして今も寂しい。ネグレクトを受けたのであればそういう気持ちは持って当たり前です。親であろうが誰であろうが、人(子供)の気持ちを無視すると、された当事者は心にナイフがぐさっと刺されたように深く傷つくのです。これから、社会的にもネグレクトという概念がもう少し広く認識され、ネグレクトや無視も暴力の一つだ、と考える風潮が広がっていけばいいと思います。それは、虐待と同じように、被害の数を減らす第一歩であるから。少なくとも、私はそう信じています。